略歴 |
平成5年 日本大学松戸歯学部卒業 さいたま市:小谷田歯科医院勤務 (日本歯科医師会常務理事) 蓮田市:勝沼歯科医院勤務 (日本インプラント学会認定医院) 平成10年8月 ヒデ歯科クリニック開業 |
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所属学会 |
・日本歯科医師会 ・埼玉県歯科医師会 ・熊谷市歯科医師会 ・国際歯周内科学研究会会員 ・国際審美学会会員 など |
研修修了過程 |
・エムドゲイン認定セミナー ・リグロス認定 ・デンタルアーツカデミー 全コース受講 など |
私は昭和43年に熊谷市内の産院で生を受けました。逆子で何度戻しても元に戻ってしまい、とても難産だったそうです(既にこの頃からひねくれ者だったのかもしれません)。
当時、父は星川通り沿いで建材店を営んでおりました。商店が並ぶ一角で父と従業員が大量のセメントを積み出して配達していたのをかすかに覚えています。
父はいつも優しく、近所のおもちゃ屋さんでミニカーを買ってもらうのが一番の楽しみでした。
また、休みの日には、色々な所へ遊びに連れていってもらいました。
小学生になると、子ども会のソフトボールチームに入部。この頃は体格と運動神経に恵まれており、キャプテンとしてわりと活躍できた為、のめり込んで一生懸命練習をしていました。
その一方で、手先が器用だったこともあり、プラモデル作りにも熱中していました。
中学に入学すると野球部に入部しました。楽しくやっていたソフトボールと違い、厳しい練習についていけなくなり、いつのまにか幽霊部員となってしまいました。自分の弱さを思い知ることとなったのです。
この当時は校内暴力という言葉が盛んに報道され、先生や親に反抗することがなんとなくかっこいいといった“乱れた空気感”が漂っていたように思えます。
面倒くさい、大変なことからは逃げることしか考えないようになっていましたから、当然勉強はできるはずがなく、志望校には行けず栃木県内にある私立高校にいくことになりました。
この時に流行っていたのが角川文庫の“時をかける少女”や“セーラー服と機関銃”です。
ご存じないかもしれませんが原田知世さんが後に主演する作品ともなった、“早春物語”の文庫本を読む機会がありました。こういったら失礼にあたりますが内容はしょうもない恋愛物です(笑)。
しかし、ストーリーに出てくるヒロインの相手役が一流商社マンで、それがすごくかっこ良く描かれており、単純な私は「将来の仕事はこれしかない!!」と思うようになりました。
そして一流商社に勤めるにはどうすれば良いのかを自分なりに調べてみると、まずは超一流大学に行きその中でも特に良い成績でなければ採用されないという、とうてい実現不可能なものでした。
高校生の自分にとっては、とても高い山の頂上に登るようなわくわくさせるものがあり、なんとしてでも実現してみたい夢へとなっていきました。そんな不純なきっかけで高校時代の趣味は勉強となり、3年生になると順位は上から数番目には入っているようになりました。
高校三年生二学期となり、本気で将来のことを考えなければならない時期となりました。
小学生までは、あれだけ遊んだ父とも、中学以降ほとんどしゃべることもなく、なんとなく父はけむたい存在となっていました。そんな父がある日、面と向かってこう言ってきたのです。
「手に職を持ちなさい。どんな時代になっても困らない職を(…沈黙)。」
「お前は小さい頃から手先が器用だから手に職をつける最高学府の歯学部を受験しなさい。そしてみんなから本当に必要と思ってもらえる仕事をしなさい。」
その場は、「俺は文系でやってきたし、商社に入って仕事をしたい」と言うのがやっとでした。
その後、本当に真剣に考えました。
そしてなぜ父がそんな突拍子もないことを言い出したのか考えるようになりました。
父は私が小学校に入るまでは自営をしていましたが、経営がうまくいかなくなり、サラリーマンへと転身し、色々な苦労があったようです。本当に仕事の厳しさを知っているからこそ出た父の考えであったと思えるようになったのです。
幸い通っていた高校が大学の付属であったため、あっさりと歯学部に合格し、歯科医師を目指すこととなったのです。
皆さんは私立の歯科大生にどんなイメージを持たれますか?
特に私が入学した当時はバブル絶頂期です。高級車を乗り回し、遊びも派手で華やかなイメージではないでしょうか。
しかし私の入学した日本大学松戸歯学部は、学業はもちろんのこと上下間の規律もとても厳しく軍隊そのものといった感じでした。後に他の歯科大は華やかなイメージ通りだったことを知ります。
そして何より衝撃的だったのは、留年せずに卒業できるのは6~7割しかいないということでした。そんな環境もあり、部活は一番楽だと噂されていたアーチェリー部に所属することにしました。
厳しいながらも、それなりに楽しく学生生活を謳歌していたわけですが、4年生になると小児歯科という講座があり、その一科目だけで1/3の学生が留年になったという伝説がある講座があります。テストはなんと6年間の大学内容のハイライトになるようなテスト。講座をうけた私はこの時ばかりは本当に勉強しました。分厚い辞書のような本を何冊も暗記するほどでした。
しかし、予想もしなかった問題が出題され、前期のテストは散々な結果。この時はもう本当に終わったと思いました。それから後期テストまでの数ヶ月間は、「次ダメだったらどうしよう…」という恐怖感で完全に気が滅入ってしまいました。
しかし、そんな自分を救ってくれたのが部活の先輩や仲間たちでした。5、6年生の先輩は、臨床実習や国家試験の勉強が忙しく、人のことに構っている場合ではないのに、たびたび先輩の下宿に呼んでくれ、朝まで過去問を一緒に解いてくれました。
また、同級の仲間たちもお互いに励ましあい、何とかこのピンチを乗り切ることができました。この時の先輩や仲間たちは、今でも自分の本当に弱いところを見せられるかけがいのない財産であり、大学時代最大の収穫であったと思っています。
国家試験にも合格し、はれて歯科医師となり、県内の開業医の歯科医院で勤務することになりました。これは大学に残るよりも、早く一人前になれたことを意味します。
そして勤務先にはとことんこだわりました。最高レベルの治療が提供できるとなると県内にも、数件しかありません。
通常の就職であれば、大学の先生や先輩からの紹介で、「それじゃ来週から来てね」という感じですが、特別な歯科医院であればそういう訳にもいかず、試験を受けなければなりません。
なんとか希望した歯科医院に就職ができ、歯科医師としての生活が始まりました。そこは8名の歯科医師がおり、その内5名は大学の各診療科から曜日ごとに派遣されており勉強するには、これ以上ないといっていい程恵まれた環境でした。
また、2年目からは給料のかなりの部分を使って臨床の達人といわれる先生方の講習会へも、参加するようになりました。始めのうちは、早く自分もあんな治療ができるようになりたいと必死でしたが、ある程度自分の技術が上がってくると、ある疑問を感じるようになったのです。
それは、歯槽膿漏が進行しきって結局自分の歯をすべて失ってしまい、20本ものインプラントを入れたケースでした。その症例をスライドに映しながら講師の先生はこのような最悪の状態でもきれいな咬み合わせに改善できると、自慢げにニコニコしながら解説したことでした。
歯科医師であれば、この患者さんはこんな状態になるまでに相当な苦労をしてきたことは容易に想像することができるはず。確かにその治療内容はとてもすばらしいのですが、なぜこのような状態になる前に、歯槽膿漏を予防してあげることができなかったかと思うと、残念でなりませんでした。
歯科医師は自分が虫歯や歯周病にならない方法を知っていてもそれを患者さんに教えず、目の前の虫歯を治しその治療を競い合って自己満足しているだけに思えてならないのです。歯科医師が本当にしなければならないのは治すことではなく、虫歯や歯周病にならない方法を患者さんにきちんと伝えていくことだと思うのです。そして歯科医師として進むべき方向が自分の中できっちり定まったのです。
平成10年8月。
生まれ育った熊谷市にヒデ歯科クリニックを開業することができました。
ヒデは名前の秀雄からとったのですが、これは友達から呼ばれていたニックネームで、少しでも皆さんに親しみを感じていただきたいとの“想い”からでした。
勤務医時代に患者さんから「とにかく歯医者だけは嫌いなのよね」とか「必要がなければできだけ行きたくない」というお話はさんざん耳にしてきました。そして本当に歯医者に行くのが嫌で極限まで我慢してしまい、多数の歯を失うことになってしまった方も大勢いらっしゃいました。
そのような悲しいことを繰り返さないようにヒデ歯科クリニックは笑顔あふれる医院作りをコンセプトにしました。歯科医院である以上、最新・最良の技術と設備で質の高い医療を患者様に提供するのはもちろん当然のことだと思っています。
また、そのためにスタッフ共々、さまざまなセミナーに参加し、研修もつんでおります。しかし、いくらすばらしい治療をしたとしてもそのまま放っておけば、やがてはまたどこからかトラブルが出てきてしまいます。
それを防ぐには定期的な予防しかありません。その予防治療が嫌な所に行く感覚では絶対長続きしないはずです。ドキドキ緊張していく歯科医院ではなくわくわく楽しい笑顔あふれる歯科医院にしていきたいのです。私たちは患者様から感動し、心から喜んでいただけるような取り組みを行っていきます。
お口の健康を通して生き生きとした自然な笑顔で明るく幸せな人生を送っていただけるお手伝いができるヒデ歯科クリニックでありたいと思っています。
是非今後もよろしくお願いいたします。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。
院長 佐藤秀雄